「コミュニケーション下手」と思っている方、パーティ、得意ですか?そんな訳ないですよね。私も大の苦手がパーティと大人数コンパです。初対面の人ばかり集まるような場面、もっとも苦手とする非社交人間です。コミュニケーションを大学院で教えてるのに・・・・
アンサーソングに習って、コラム「すぐに打ち解けられる人」になるのの反対を考えてみたいと思います。もちろんそちらのコラムを否定したり、あげつらう目的ではなく、別の視点、コミュニケーションの原則と言う点で考えました。
コミュニケーションの指導をしていて非常に良くあることは、「しゃべり下手」と「コミュニケーション下手」を混同する方が限りなく多いと言うことです。
特に私の教えている大学は理系&大学院博士課程ということもあり、いわゆるペラペラしゃべれるタイプの学生と言うのは極めて稀です。すると私の「コミュニケーション」の授業では魔法によって、彼ら彼女らを変身させられるのでしょうか?
変身は出来ます。しかしそれは「ペラペラしゃべれるようになる」のではなく、「伝えるべき情報を、きちんと伝えられるようになる」ことを目指しているのです。オタクっぽいニイチャンが、授業を受けただけでペラペラのプレゼンが出来るようになる訳がありません。それで良いのです。理系博士課程学生に、そんなチャチなプレゼン能力は求められていません。
このことをしっかり理解してもらえれば、もう8割方、ゴールは見えてきます。
「伝える」とは、単に一方的に情報を投げることではありません。相手が必ずいる訳ですから、いかに相手に受け止めてもらえるか、そうした土壌作りが極めて大切になります。
そもそも「打ち解ける」って必要なんでしょうか?
大学院の正規授業でコミュニケーションを教えている教官でございますが、私、「打ち解け」下手です。特に苦手なのが外人パーティ。
昔は単に英語がわからないから苦手なのかと思っていたのですが、曲がりなりにも英語がちょびっとは理解できるようになってからも、「今日はいい天気だったね、キャサリン」「そうねディラン」みたいな会話の、どこがおもしろいのか全く理解できん!感は全く払拭出来ません。良く考えたら日本人同士のコンパや宴会も全く同じでした。
私のようなコラム弁慶は、パソコンに向かえばいくらでも毒舌出来ますが、面と向かった日にゃ、えらい好々爺(「スキスキじじい」では無い)ぶりです。スキがあれば人と接するより一人部屋にこもって、10年前のプロレスビデオをDVD化するというエンドレス作業をしていたいクチです。
もちろんお仕事ですから、大学や企業さんでの授業やセミナーでは何百人も相手にして、ポケットに片手をつっこみつつ、「いいですか、皆さん。コミュニケーションの要諦はストラテジーにあり、ですよ。ここが押えられなければ何も始まらないんです。私に騙されなさい!」と、エラソーな話をしています。
つまり私自身、使い分けているのです。打ち解けて話をしたり、コミュニケーションを積極的に取る自分(仕事モード)と、一人で部屋にこもることが楽しくて仕方ない自分(プレイベートモード)の二つを。これをどちらも共通できるようにすれば、能率は上がるのでしょうか?私は無理だと思います。
私のママは社交性の塊のような人間です。東京の下町の商店街のおばちゃんなので、それが普通なのですが、初対面の人と平気で長話出来ます。私はその遺伝子は一切受け継いでいません。・・・・ということは?本当のママは、どこ!
私の本当の母はともかく。要は目的にかなうかどうか、が要諦なのです。「交流すること」が目的なら、不本意でも愛想良くふるまわなければ目的達成出来ません。しかし単にパーティの場にいるから、「交流できなければダメ人間」という価値観はどうなのでしょう?そもそも興味なければ出なければ良いのでしょうが、ビジネスパーソンなら、不本意でも、義理で、仕事で、出なければならない宴席は必ずあることでしょう。
「パーティに出ること」が目的なのであれば、「出れば」良いのです。「出た」だけでなく、さらに打ち解けて交流するかどうかは、この価値判断とは別物です。ここを一緒にしてしまうと、不必要な自信喪失や自己嫌悪になるのです。
堂々と、「お仕事なんでパーティに出まっす。打ち解けて話とか出来ない人間ですが、何か?」と開き直りましょう。だって義理は果たせたんでしょ?あなたはちゃんとお役目を務められたヒトですよ。
戦いの場では「心理戦」がきわめて重要です。マインドゲームで負けてしまっては、戦いの勝利はあり得ません。自分の心を、自ら折る、というのは一番もったいない結末です。堂々と非社交性を発揮しましょう、仲間の皆さん!